レッジョエミリアと遊び|知能を高める遊びとは?
レッジョエミリアアプローチにおける遊びや、子どもの知能を高める遊びは何かを考えます。ポイントは①「まじめな遊び」とレッジョエミリアアプローチの関係 ②これから高めるべき知能 ③間を考える
です。遊び方によって、子どもの知能が高められるとしたら、子どもの将来にも大きく影響がでてきそうですね。今日は東京大学名誉教授 佐伯胖(さえき ゆたか)著「子どもの遊びを考える」という本より、知能や遊びについて、言葉を抜粋しながら私の考えるレッジョエミリアの遊びについて考えていきます。
①「まじめな遊び」とレッジョエミリアアプローチ
レッジョエミリアアプローチの中での「遊び」は誰からも指示されない空間で思い思いに自己流の遊びを展開しています。“遊び”は子ども時代になくてはならないものです。ひたむきに遊び合う子どもたちの姿からは、目の輝きがキラキラしています。見えない心のエネルギーが燃え上がっているようにも思えます。
現在日本では文部科学省が提示した学校改革「生きる力」の育成の中で、自発的な遊びが生活の中心でなくてはならないとしています。“遊び”を教育的に考えるとき、レッジョエミリアアプローチを通して考えていきたいと思います。この“遊び”についてはすでに、100年前から哲学者ジョン・デューイが「遊び心とまじめさは同時に並存するし、それこそが「心の持ちよう」としての理想である」と言っており、どちらが極端になっても問題で、学校教育はまじめで楽しんで学ぶということが封じられている状態であると言っていました。その後、教育学者のセルマ・ワッサーマンは、「遊び心」と「しごと心」の混然一体となった、「まじめな遊び5原則」を授業スタイルに加えたことでも有名です。そのスタイルは遊びが、生成的で、試行錯誤することは未知なるリスクでもあるが、失敗ではないという前提のもと、自律的であり体を動かしながら遊びを深めていくという教育スタイルなのですが、二人に共通しているのは、まじめに、目的が分かった上で取り組みながらも、自分自身がより状況をよくしていくこと、ワクワクして行えるその過程・心を大事にしたかったのはないかと考えます。そして、それは現在の「生きる力」という能力育成に通じるものでもあるといえるのではないかと私は感じます。
イタリア発祥のレッジョエミリアアプローチは戦後、保護者たちが中心となって、子どもの教育を第一に考え確立していった幼児学校で行っているアプローチです。特徴的なのは、【子供の権利】を尊重しており、子ども自身の感情や表現を重んじ、探求の世界を一緒に共にする対等な人間関係の重要性を示している点です。目の前にある世界を自分の目で確かめ、感じ考えること、それが真の教育なのだと考えたのです。未知の世界にびっくりすることもあるでしょう。ふと触れた世界になぜだろう?と考え、どんどん探求していくことも【権利】なのです。自分の目・体・感覚で確かめていく子どもたちの成長の過程を共に大人たちは見つめていく必要性があります。創始者のローリス・マグラッツィの隠喩的な詩「100の言葉」にも表れていますが、大人が定めたルールや固定観念の中では自分の感覚が失われる場合もあります。自分自身の心に正直に、表し、人に伝え、共に考え合うことの共同性は、まじめに考え、これからの環境をよくする思いにもつながります。このように考えると、それぞれが様々な時代背景があったにしろ、レッジョエミリアアプローチは「まじめな遊び心」が体言できるアプローチであると考えられます。
②これから高めるべき知能
佐伯胖(さえき ゆたか)著「子どもの遊びを考える」の中で,知能は3つに分けられるとしています。1.人工知能 2.自然知能 3.天然知能です。その中でも特に佐伯さんは3.天然知能である「決着がつかない知性」がデゥーイの「遊び心」と「まじめ心」の理想の心的状態だといいます。私はこの天然知能がこれから子どもたちが最も高めるべき知能であると考えます。佐伯さんの言葉をお借りすると、肯定(Aである)と否定(Aでない)が両立する知です。人工知能・自然知能は、主観的な推論なのか、客観的な推論なのかに違いはあれど、ともに「必ず正解がある」と信じ、見つけ出す知能です。今の時代は、何が起こるかわからない不確実な時代で、論理がすべて通らない時代となっています。つまり着実な終地点がない中で自分で一生懸命思考し、様々な立場の人の視点を取り入れながら“自分や周りにとっていい状況”を作り上げていかなくてはいけないのです。従って、私たちが高めなければいけないのは、まさに探求を続ける天然知能なのではないでしょうか。そのために私たちは、「正解」のために動くのではなく、「不正解」か「正解」かに関わらず同じ時代に生きている人間同士で、まずはやってみて、感じてみて、話し合うことが大切になります。そこでレッジョエミリアアプローチの“子供の権利”としての“まじめな遊び心”は天然知能を高めるところに貢献できるのではないかと考えます。
現在日本では文部科学省が提示した学校改革「生きる力」の育成の中で、自発的な遊びが生活の中心でなくてはならないとしています。“遊び”を教育的に考えるとき、レッジョエミリアアプローチを通して考えていきたいと思います。この“遊び”についてはすでに、100年前から哲学者ジョン・デューイが、「遊び心とまじめさは同時に並存するし、それこそが「心の持ちよう」としての理想である」と言っており、どちらが極端になっても問題で、学校教育はまじめで楽しんで学ぶということが封じられている状態であると言っていました。その後、教育学者のセルマ・ワッサーマンは、「遊び心」と「しごと心」の混然一体となった、「まじめな遊び5原則」を授業スタイルに加えたことでも有名です。そのスタイルは遊びが、生成的で、試行錯誤することは未知なるリスクでもあるが、失敗ではないという前提のもと、自律的であり体を動かしながら遊びを深めていくという教育スタイルなのですが、二人に共通しているのは、まじめに、目的が分かった上で取り組みながらも、自分自身がより状況をよくしていくこと、ワクワクして行えるその過程・心を大事にしたかったのはないかと考えます。そして、それは現在の「生きる力」という能力育成に通じるものでもあるといえます。
イタリア発祥のレッジョエミリアアプローチは戦後、保護者たちが中心となって、子どもの教育を第一に考え確立していった幼児学校で行っているアプローチです。特徴的なのは、【子供の権利】を尊重しており、特に子ども自身の感情や表現を重んじ、探求の世界を一緒に共にする対等な人間関係の重要性を示している点です。目の前にある世界を自分の目で確かめ、感じ考えること、それが真の教育なのであり、子どもたちの人権だと考えたのです。未知の世界にびっくりすることもあるでしょう。ふと触れた世界になぜだろう?と考え、どんどん探求していくことも【権利】なのです。自分の目・体・感覚で確かめていく子どもたちの成長の過程を共に大人たちは見つめていく必要性があります。創始者のローリス・マグラッツィの隠喩的な詩「100の言葉」にも表れていますが、大人が定めたルールや固定観念の中では自分の感覚が失われる場合もあります。自分自身の心に正直に、表し、人に伝え、共に考え合うことの共同性は、まじめに考え、これからの環境をよくする思いにもつながります。このように考えると、それぞれが様々な時代背景があったにしろ、レッジョエミリアアプローチは「まじめな遊び心」が体言できるアプローチであると考えられます。
③間を考える
子どもの天然知能を高めるため、遊びの“間”について考えてみます。
近年、非認知能力※1を高めることは子供個人の人生においても、社会的な成功にも、健全な生活にも影響があり幼児期からの時期が特に必要言われています。幼児期に非認知能力を高めるためには、遊びや身近な人との信頼性(アタッチメント)が大切になります。私はこの遊びにも質があると考えており、子どもたちの天然知能の在り方が鍵になると感じています。レッジョエミリアアプローチでは、子ども主体が権利として認められており、一種の自発的な自由な遊びです。権利・自由には責任があるとされ、それ故、子どもも社会の一員として捉えています。
佐伯さんの本の中では、子どもたちの意志があるから遊びが行われ、その遊びに責任があるとする近代以降の思考枠組みですら固定観念だと捉えるなど面白く感じる視点が数多くありました。実際にレッジョエミリアアプローチの中で過ごす子ども達は、他の子どもたちと関わりの中で、刻一刻と認識を変え、感情も変化し、当初持っていた目的からそれるということも多々あります。紹介されている論文※2の中では、子どもたちが、よく遊びの中で思いつく瞬間の「いいこと思いついた!」が能動的(子どもの意志によるもの)ではなく、中動態であると記されています。中動態とは、主体に起こる時間、状況変化の結果です。どういうことかというと、遊びという行為を選択しているのは子ども自身=主体的であるけれども、遊びは予期することができない状況や関係性の連続で成り立っており、「いいこと思いついた!」のひらめきはどこからともなく、“やってくる”ものだとしています。従って子どもの遊びの姿は能動的ではなく、中動態のようです。
私は、「いいこと思いついた!」中動態の瞬間がもしかしたら、天然知能を高めることにつながるのではないかと思います。「ああでもない」「こうでもない」結論はわからないけど、「やってみたい!」「試してみたい!」と思わせるその状況こそ大切にし、その“やってくるもの”を“待つ”子どものために、私達大人が与えられる“時間”としての“間”がとても貴重なものとなりそうです。
以上①②③をまとめると、「まじめな遊び心」はレッジョエミリアアプローチが体言しているといえます。体言されたその遊びは、教育的な質を高め、天然知能を育てる。その為レッジョエミリアアプローチの中では、「いいこと思いついた!」その瞬間を見守れる大人とゆとりのある時間が必要であるということです。せかせか動き回る大人、そして満ち足りた日本での環境は、もしかしたら、どもたちの「いいこと思いついた!」を奪っているかもしれません。保育園や幼稚園でもなかなか“自由時間”を持てることも少ないかもしれません。しかしながら、私たちは子どもたちのための時間を少しでも確保し、”子どもの生きる力“を育む教育を考えていかなければいけません。
※1非認知能力は自制心や自尊心などの1.自分に関する力、社交性や思いやりなどの2.他者に関する力と2つに分けられ感情や心の知性とも言われています。
※2矢野勇樹さんの修士論文